戦場ジャーナリスト・青木弘さんと話して考えたこと Vol.6

 自分のバイト先である、某写真美術館で現在会期中である写真家・青木弘さんとお話をし、印象に残ることが多くあったので記しておこうと思う。

 

ameblo.jp

 

 青木さんは鳥取出身で現在は横浜に住まわれてるそうで、展示中につき京都にて在廊していただいています。今回の展示では、中央アフリカ共和国という日本人我々にとってはなじみのないところで、ジャーナル×アートの写真を撮影されてきました。中央アフリカは、シリア、南スーダンなどと並んで危険地帯として有名な国です。10年ほど前にニュースでよく耳にした「アラブの春」により、独裁政権の崩壊、その後民主主義が目指されたのだが多数のグループ同士で内紛が生じてまとまりがない状態であるといいます。

 

 

中央アフリカで有名なものは、世界におけるジュエリー用ダイヤモンド産出量が多いということであるが、これが政治利用されているのだ。児童労働など先進国ではタブーとなることが平然と行われている実情だそうだ。青木さんは以前から中東など危険地帯で撮影を繰り返されたのだそうだが、普遍的な美の象徴・ダイヤモンドおよびその背景にうずまる闇に興味を持ち現地に赴かれたそうだ。

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ダイヤモンド採掘場で働く青年

  報道写真は、その対象の背景に込められた思い・出来事などを想像力を巡らせて解釈するのが醍醐味であると思う。ジャーナリストにとっては大変な名誉であるピューリツァー賞受賞作品は報道写真の傑作であるのだが、その中の一作品「ハゲワシと少女」の写真家ケビン・カーターさんのエピソードが印象的だった。

 

その作品というのはスーダンの配給所にてうずくまるやせ細った少女が写る。餓死も余儀なくされない状況がうかがえ、そのすぐそばには猛禽類のハゲワシが。死肉を主食とするハゲワシは、人間にとっては死神を連想させられるだろう。まさに生死の瀬戸際ともいえる状況での撮影写真は大変センセーショナルなものだった。この一枚の写真が世界に広まり、そうしたスーダンの悲惨な状況に応じた世界各国が物資支援を行った。写真家としてのケビンカーターは多大な社会貢献をしたといえるだろう。その一方で、批判的な意見も見られる。

「今にも死にそうな子にどうして一刻も早く助けの手をださないのか。」

「ハゲワシを追い払うくらいの最低限の道徳的な行いを最優先するべきなのでは。」といった声が。

しかし、その背景には配給を受けた母がフレーム外にいて少女も無事に食を得ることができたとのことだった。

ケビンカーターはそうした批判には反論、弁明をすることができたはずである。しかしながら一切のことを述べず受賞から1か月後に自殺を遂げる。

 

この事件は報道写真家にとっては「人命」と「報道」のどちらを優先するのかという課題を提示した。また仮定の話だが、もし少女が助からなかったけれども、その命の犠牲により国際情勢問題の解決につながったならば、公共の福祉と個人の福祉が対立することにもつながりかねない。

 

ただ自分が一番強調したいのは、見る側・鑑賞者は想像力を働かせて、あラゆる場合を想定するのが責任ではないかなと思う。ケビンカーターさんに自殺の原因はけっして世間のバッシングだけではないであろうが、我々民衆の愚かさを語っていると自分は感じる。確かに写真の表面では、人間の核心を突くセンセーショナルな写真であったが、その背景、真実を想像した人は当時いたのだろうか。

 

批判することができるのは、批判される覚悟のあるものだけだ

もちろん世の中の不条理に物申したい人が多いのも事実であるが、そうした人たちは批判に対して責任を持てるのかという疑問が残る。価値観の強要は避けたいことであるが(ブログ執筆がその片棒を担ぐことは置いておき)、この世の中根拠なしにかかわらず善悪を主張する人が多いのが嘆かわしい。

 

京大生の自分としては、「論証の京大」といわれるように論理的思考力は人並み以上にはあると思いたいのだが、根拠のない空論ほど空虚なものはないと思う。現在もコロナによる鬱屈とした状況でたまったストレスを発散しようと政権批判を行う人もいるが、責任を受け持った発言をしない限りは響かないし、人に伝えることはできない。

 

脱線しすぎたのだが、戦場カメラマンとして青木さんとお話しして感じたことを述べた。

次回は、青木さんの作品紹介をしたいと思う。