地元#1 Vol.7
こんにちは、人生がコンテンツした奴、ヒラリです。
最近(といっても、1か月ほど前だが)、地元の先輩から一報が入った。
自分は熊本の片田舎出身だが、その人はこてこての熊本人で(たとえて言うならばとりわけ関西弁が強い難波あたりの人)、母校・熊本愛がすごいため後進(母校生、熊本県人)のために尽くしていることで卒業生界隈でも有名な人だ。ここではAさんとしておく。Aさんは部活の大先輩であり、やたら地元のOBライングループを更新してくれるので、関西に出ている自分からしたらたまにいい情報を更新してくださる。
ここで自己紹介になるのだが、熊本県立済々黌高校出身である。著名な卒業生では、クリームシチューの上田・有田さんや、政治学者の姜尚中さん、今の内閣総理補佐官を務める木原稔さんなどだ。江戸時代の熊本藩校「時習館」の系譜を継ぎ、県内で最も伝統のある高校として有名である。またいつかの回で高校生活を振り返る機会を設けようと思う。教育方針である三綱領「正倫理 明大儀」「重廉恥 振元気」「磨知識 進文明」という鉄の掟でも有名。
そんな済々黌高校であるが、そこでの高校生活を舞台としたマンガがヤングマガジンで連載することになった。その連載名は「こはる はる!」という、とある小楠高校に通う女子高生を主人公としたストーリーである。
高校名こそ全く似ていないのだが、これは熊本の誇る偉人・横井小楠先生の名前をもじったものだろう。しかしながら、ストーリーを読み進めるにつれて作者・新井春巻さんのあふれんばかりの母校愛が伝わってくる。こてこての熊本弁で(実際は今どきのJKはこんな言葉つかわんやろってツッコミながら)ほっこりとする内容でした。
校舎もまさしく済々黌校舎で高校時代にタイムスリップするような感覚になります。他都道府県の方にはさほど知名度は高くないですが、熊本ではナンバーワンを誇る人気の学校の舞台裏をぜひとも覗いてほしいと一人のOBとして思うばかりです。
あくまで個人的な予想ですが、この連載漫画は青年漫画誌に掲載ということもあり、高校生活といいながら、ややエロ路線を攻めていくような気がします(笑)。
母校の(あくまでフィクションと呼ばれてるが自分が勝手に呼んでます)後輩たちの青春を見守る大学生として、連載が続くことを祈るばかりです。
熊本ばもりあげていきまっしょい!
戦場ジャーナリスト・青木弘さんと話して考えたこと Vol.6
自分のバイト先である、某写真美術館で現在会期中である写真家・青木弘さんとお話をし、印象に残ることが多くあったので記しておこうと思う。
青木さんは鳥取出身で現在は横浜に住まわれてるそうで、展示中につき京都にて在廊していただいています。今回の展示では、中央アフリカ共和国という日本人我々にとってはなじみのないところで、ジャーナル×アートの写真を撮影されてきました。中央アフリカは、シリア、南スーダンなどと並んで危険地帯として有名な国です。10年ほど前にニュースでよく耳にした「アラブの春」により、独裁政権の崩壊、その後民主主義が目指されたのだが多数のグループ同士で内紛が生じてまとまりがない状態であるといいます。
中央アフリカで有名なものは、世界におけるジュエリー用ダイヤモンド産出量が多いということであるが、これが政治利用されているのだ。児童労働など先進国ではタブーとなることが平然と行われている実情だそうだ。青木さんは以前から中東など危険地帯で撮影を繰り返されたのだそうだが、普遍的な美の象徴・ダイヤモンドおよびその背景にうずまる闇に興味を持ち現地に赴かれたそうだ。
報道写真は、その対象の背景に込められた思い・出来事などを想像力を巡らせて解釈するのが醍醐味であると思う。ジャーナリストにとっては大変な名誉であるピューリツァー賞受賞作品は報道写真の傑作であるのだが、その中の一作品「ハゲワシと少女」の写真家ケビン・カーターさんのエピソードが印象的だった。
その作品というのはスーダンの配給所にてうずくまるやせ細った少女が写る。餓死も余儀なくされない状況がうかがえ、そのすぐそばには猛禽類のハゲワシが。死肉を主食とするハゲワシは、人間にとっては死神を連想させられるだろう。まさに生死の瀬戸際ともいえる状況での撮影写真は大変センセーショナルなものだった。この一枚の写真が世界に広まり、そうしたスーダンの悲惨な状況に応じた世界各国が物資支援を行った。写真家としてのケビンカーターは多大な社会貢献をしたといえるだろう。その一方で、批判的な意見も見られる。
「今にも死にそうな子にどうして一刻も早く助けの手をださないのか。」
「ハゲワシを追い払うくらいの最低限の道徳的な行いを最優先するべきなのでは。」といった声が。
しかし、その背景には配給を受けた母がフレーム外にいて少女も無事に食を得ることができたとのことだった。
ケビンカーターはそうした批判には反論、弁明をすることができたはずである。しかしながら一切のことを述べず受賞から1か月後に自殺を遂げる。
この事件は報道写真家にとっては「人命」と「報道」のどちらを優先するのかという課題を提示した。また仮定の話だが、もし少女が助からなかったけれども、その命の犠牲により国際情勢問題の解決につながったならば、公共の福祉と個人の福祉が対立することにもつながりかねない。
ただ自分が一番強調したいのは、見る側・鑑賞者は想像力を働かせて、あラゆる場合を想定するのが責任ではないかなと思う。ケビンカーターさんに自殺の原因はけっして世間のバッシングだけではないであろうが、我々民衆の愚かさを語っていると自分は感じる。確かに写真の表面では、人間の核心を突くセンセーショナルな写真であったが、その背景、真実を想像した人は当時いたのだろうか。
批判することができるのは、批判される覚悟のあるものだけだ
もちろん世の中の不条理に物申したい人が多いのも事実であるが、そうした人たちは批判に対して責任を持てるのかという疑問が残る。価値観の強要は避けたいことであるが(ブログ執筆がその片棒を担ぐことは置いておき)、この世の中根拠なしにかかわらず善悪を主張する人が多いのが嘆かわしい。
京大生の自分としては、「論証の京大」といわれるように論理的思考力は人並み以上にはあると思いたいのだが、根拠のない空論ほど空虚なものはないと思う。現在もコロナによる鬱屈とした状況でたまったストレスを発散しようと政権批判を行う人もいるが、責任を受け持った発言をしない限りは響かないし、人に伝えることはできない。
脱線しすぎたのだが、戦場カメラマンとして青木さんとお話しして感じたことを述べた。
次回は、青木さんの作品紹介をしたいと思う。
日常#1 vol.4
ふと最近新聞で目にした、「もったいない」は「mottainai」で英語にても通じるという記事を。西洋の人々はもったいないという概念を抱きつつあることの裏返しであろうが、自分がいつも英訳するときは「regrettable to dump」などと「捨てるには惜しい」というニュアンスで使い分けてきた。
遡ること数年であるが、京大入試の英作文では日本語でも聞きなれない言葉を自分の中でかみ砕いて自分の知っている単語だけで説明するのが求められるということを思い出した。
この考え方(難しい言葉を平易な言葉に解釈すること)は自分の生き方において有益であるように考える。
例えば、仏教的概念「わび・さび」。侘(わび、侘びとも)とは、辞典の定義によれば、「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」を言い、動詞「わぶ」の名詞形である。一方、寂(さび、寂び、然びとも)は、「閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」を言い、動詞「さぶ」の名詞形である。
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%83%BB%E3%81%95%E3%81%B3
この言葉を自分だったら、「the beautiful sense in Eastern of trying to find satisfaction and beauty」とします。英語の専門の人から見たら不器用な表現だと言えますが、ネイティブではない者からしたらまずまずなのではないでしょうか。
東洋思想の概念であるため、西洋の言語である英語に正確にこのニュアンスをもつ単語があるわけではない。
我々が実社会でぶち当たる言葉は時として初めて目にする言葉ばかりでしょう。辞書で調べることも大事ですが、自分の知っている言葉を類推させながら想像力を働かせることも必要になってくるのではないでしょうか。
次回の記事は、今回の初めに出した「もったいない」という言葉を掘り下げたいと思います。
【書評#1】一九八四年 Vol.3
こんにちは、ヒラリです。
前回の記事で軽く紹介したジョージ・オーウェル著「一九八四年」ではありますが、本の考察および、そこから自身の行動の変化を述べようと思います。ぜひ最後までお読みください。
●解説
情報改竄(かいざん)、拷問、戦争、経済的搾取。これらが正義となっているカタストロフィックで無機質なディストピアとしてのオセアニアという国家が物語の舞台。「ビッグ・ブラザー」という為政者による絶対服従国家の中で、人間性とはなにか主人公であるウィンストンが社会とのはざまで、もがき苦しむストーリーである。
本書の構造を分析すると、ウィンストンという情報改竄で働くものの視点を通じて、第一部はカタストロフィックで、無機質なディストピアとしてのオセアニアの描写、第二部は豊潤な肉体を有した美女ジュリアとの甘美な日々(ジュリアが社会主義と資本主義のジレンマを体現している)。第三部は、思考警察による摘発、愛するジュリアへの裏切り、徹底的なまでの洗脳教育。
自己紹介でも述べた通り、考えたことを言葉にすることが好きな自分は、ここ一年間、日記をつけておりました。物語の主人公、ウィンストンもオセアニア社会に反して日記をつけていました。(なぜ社会に反するかというと、オセアニアは人民に思考の余地さえ与えようとしなかった。)真実省という名の官公庁で、職務が事実を捏造、改竄しなければならなかった彼が、未来の誰かが影響されて社会変革を起こしてくれるのではないかという最後の希望としてすがったものでした。
何かを記すという行為は、何かしら社会貢献につながることだと考えます。(多少なりとも、他者からの評価を求めたいという承認欲求がないと言ったらウソになりますが。)
いまはCovid-19により不自由な世の中ではありますが、(他国との比較にはなりますが)本来は自由な国家で暮らせています。国内に目を向ければ、選挙権の獲得など自由な世の中を目指し先人たちが努力して獲得されてきました。現代を生きる人として、先人たちの努力に敬意を払い、自由で多様な考えがまかり通る世の中を後世にも伝えていきたいものです。
ブログ開設のきっかけVol.2
なぜブログを開設して自分の考えたことを表現しようと思ったのか。
言わずもがなコロナウイルスによる自粛に伴い、内省する時間が増えたこと。そしてなにより、最近読んだジョージ・オーウェル著の「一九八四年」に感化されたということが考えられる。(因果関係が結び付きづらいが明日詳細に説明します。)
言わずもがなSF小説の傑作のひとつであり、出会うのが遅すぎたとさえ感じてしまった。
物語は、退廃的で無機質なディストピア、オセアニアという架空の国家。自由資本主義経済に生きる我々にとって、想像をできる限り働かせないと内容に追いつくことができない。我々読者の教養も問われているのだ。
次回の記事は、本書の分析、本書から考えたことを述べたいと思う。
自己紹介Vol.1
人生がコンテンツ化した男・ヒラリと申します。京都大学学部生で、一応理工系専門ではありますが、文章表現が好きなためこのように活動を始めようと考えております。
(ニックネームの由来)
尊敬するNBA選手、ポートランド・トレイルブレイザースのDamian Lillard選手の名前をIDとして使わせてもらっております。
ヒラリとして世の中の雑事をひらりひらりとかわしていく所存です。
(趣味)
読書、スポーツ、旅行、美術館巡り、英語学習、将棋、歴史。
(方向性)
自分の好きなこと・趣味・普段考えていることを読者がいると仮定したうえで、有益であるだろうと個人的に感じたものを投稿できていけたらなと考えております。一貫性あるものになるかどうかはまだ不透明ですが、暗中模索・試行錯誤の繰り返しを行うつもりです。
最終的なゴールとしては、読者間での活気ある意見交流などが実現できたらと思っています。