【書評#1】一九八四年 Vol.3

こんにちは、ヒラリです。

前回の記事で軽く紹介したジョージ・オーウェル著「一九八四年」ではありますが、本の考察および、そこから自身の行動の変化を述べようと思います。ぜひ最後までお読みください。

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

●解説

 情報改竄(かいざん)、拷問、戦争、経済的搾取。これらが正義となっているカタストロフィックで無機質なディストピアとしてのオセアニアという国家が物語の舞台。「ビッグ・ブラザー」という為政者による絶対服従国家の中で、人間性とはなにか主人公であるウィンストンが社会とのはざまで、もがき苦しむストーリーである。

 本書の構造を分析すると、ウィンストンという情報改竄で働くものの視点を通じて、第一部はカタストロフィックで、無機質なディストピアとしてのオセアニアの描写、第二部は豊潤な肉体を有した美女ジュリアとの甘美な日々(ジュリアが社会主義と資本主義のジレンマを体現している)。第三部は、思考警察による摘発、愛するジュリアへの裏切り、徹底的なまでの洗脳教育。

 異端者には徹底的に洗脳を施し、人間を完膚なきまでに叩きのめし人格を作り替える。そのような極悪非道とも言える国家に対して、主人公は言わずもがな読者としてのわれわれも無力感に苛まれる。
 物語は一縷の望みの絶たれた、圧倒的な敗北感とともに幕を下ろす。専制君主のビッグ・ブラザーは完全無欠としての支配体系「イングソック」(それは、「二重思考」という概念があるが、それは人間の意識を通して本心さえも曲解できるということであり、この世界の理想である。)を完成させる。
 
 この物語の主題は、人間の狂気じみたまでの欲望(権力、統制)の純粋化、凡人には到底達することができない魂の深い洞察であるだろう。そして背理法的に社会全体主義の否定を通した自由資本主義の肯定であることが読み解けてくる。
 
●本書を読んでの感想・考えたこと
資本主義経済に身を置く我々にとっては身の毛もよだつような描写ばかりである。(それは数少ない一縷の望みが、蔑ろにされるプロールというヒエラルキーの底辺だけという世界である。)
自由資本主義経済に生きる我々にとっては認知的不協和を生じ、もどかしさ、ネガティブ思考、違和感といった不快な思いを終始一貫として感じる。
 この物語の一連は、ソ連の思考実験などをモデルにしているといわれる。非人道的であるが、搾取・管理する側からしたら最も合理的な社会全体主義。日本人の自分としても、お隣さんの事情(北朝鮮、中国、ロシア)は注意深く見守らなければならない。社会的大変革の後には、既存のイデオロギーは打破されて、新たなイデオロギーが誕生することは歴史が物語っている。国内に目を向けても、世論は政府に向かい風を吹かせてしまっているように思われる。自分は非力ではありながらも、望ましい未来が訪れることを期待したい。
 
 
 
●本書の読書と、ブログをつける関連性は?

 

damelillard.hatenablog.com

 

 

 自己紹介でも述べた通り、考えたことを言葉にすることが好きな自分は、ここ一年間、日記をつけておりました。物語の主人公、ウィンストンもオセアニア社会に反して日記をつけていました。(なぜ社会に反するかというと、オセアニアは人民に思考の余地さえ与えようとしなかった。)真実省という名の官公庁で、職務が事実を捏造、改竄しなければならなかった彼が、未来の誰かが影響されて社会変革を起こしてくれるのではないかという最後の希望としてすがったものでした。

 

 何かを記すという行為は、何かしら社会貢献につながることだと考えます。(多少なりとも、他者からの評価を求めたいという承認欲求がないと言ったらウソになりますが。)

 いまはCovid-19により不自由な世の中ではありますが、(他国との比較にはなりますが)本来は自由な国家で暮らせています。国内に目を向ければ、選挙権の獲得など自由な世の中を目指し先人たちが努力して獲得されてきました。現代を生きる人として、先人たちの努力に敬意を払い、自由で多様な考えがまかり通る世の中を後世にも伝えていきたいものです。

 
 
最後までお読みの方はぜひ、本記事の感想などを残していただけたらと思います。